北大スキー部の歴史 (明治・大正期の活動記録)

TopPage



シーズンスキー関係政治・経済・社会動向


1876
明治9
札幌農学校開校(8月14日)
1883
明治16
  • ノルウェースキー連盟創立
1889
明治22
大日本帝国憲法公布(2月11日)
東海道本線全線開業(7月1日)
1891
明治24
  • 『スキーによるグリーンランド横断記』フリチョフ・ナンセン著刊行
1892
明治25
  • ノルウェーでフィットフェルトビンディングが考案される
1894
明治27
日清戦争(7月25日-1895年11月30日)
1895
明治28
  • 松川敏胤大尉 北満州からスキーを持参帰国
1896
明治29
  • 『リリエンフェルトスキー術』M・ズダルスキー(1856-1940)発表
1900
明治33
札幌農学校教授新渡戸稲造『武士道』を著わす。後に国際連盟設立時事務次長となる(1920年)
1901
明治34
第1回ノーベル賞
1902
明治35
  • 死の雪中行軍(1月25日)
    青森歩兵5連隊199名が八甲田山中で遭難死

日英同盟成立 (1月30日)
1904
明治37
日露戦争(4月2日-1905年9月5日)
シベリア鉄道全線開通(9月)
1905
明治38
函館駅-旭川駅間全通(8月1日)
1906
明治39
  • 英国公使館付き武官S.A.デルメラド・クリッフが札幌の月寒25連隊にスキーを寄贈
1907
明治40
札幌農学校が東北帝国大学農科大学となり、大学予科などを付設(9月1日)
1908
明治41
  • ドイツ語教師ハンス・コラーの来日(9月)
    スイス人Hans Koller(1881-1925)が北大予科のドイツ語講師として赴任し、予科の学生にドイツ語を講義
1909
明治42
  • ハンス・コラ一、スイスからノルウエースキーを取寄せる
    同時に講義用教材にスキー技術書(Henry Hoek 著”Der Schi”とMathias Zdarsky著 ”Lilienfelder ski-lauf Technik”を取寄せる
  • ノルウェー国王ホーコン7世、八甲田山雪中遭難の見舞いにスキー2 台を寄贈
伊藤博文、ハルピンで 暗殺(10月26日)
1910
明治43
  • 学生、北大構内の土手でスキーに試乗(春)
    コラー先生から借用、北大構内の古川講堂前
  • ”山岳スキー術”発表
    オーストリア将校G. ビルゲリー(1873-1934)が山岳スキー術を発表。ノルウエー式の二本杖テレマークを取り入れオーストリア式のシュテムターンが基本
1911
明治44
  • 日本のスキー発祥 (1月12日-3月12日)
    オーストリア の陸軍参謀テオド ル・フォ ン・レ ルヒ少佐が新潟県高田で日本人将校14名に一本杖のスキー術を指導
  • 稲田、角倉らは南1条の馬橇屋にスキー4-5台を注文
  • 北大でのスキー事始め(2月)
    稲田昌植ら6名、三角山山麓でハンス・コラーよりスキー技術書でドイツ語教本“Der Schi”の解説をうけて実践講習開始
1912
明治45
  • 旭川でスキー講習(2月20日-3月11日)
    レルヒ中佐、旭川第7師団に赴任。春光台で第7師団将校に加え、札幌月寒25連隊から参加の三瓶勝美中尉、松倉、中沢少尉ら26名にスキー講習を実施
  • 札幌でスキー講習(3月14-21日)
    三瓶勝美ら3人は帰札後、月寒で軍人41名、民間人19名計60名に一本杖のスキー技術の伝達講習を実施。この講習に稲田昌植、野村竜吉、荒木忠郎、徳岡松雄、二木春松、柳沢秀雄、角倉邦彦らの北大生が参加
  • 藻岩山のスキー初登頂に挑戦(3月29日、31日)
    稲田ら北大生7名と三瓶勝美は、藻岩山のスキー初登山に挑戦
  • 羊蹄山スキー登山とハンス・コラー訪問(4月17-19日)
    レルヒ中佐は将校など9名と蝦夷富士(1,893m)登山し火口手前に至る。旭川への帰途、ハンス・コラーを東北帝国大学農科大学に訪問
  • 北大スキ一部設立への動き(6月)
    稲田昌植、角倉邦彦、野村龍吉、徳岡松雄、荒木忠郎、二木春松ら6名が発起人となり、藻岩山登山等の絵はがきなどのPRで300名余の賛同者を得て、スキー部設立を文武会に建議
 明治天皇崩御(7月30日)
 年号は大正に改元
 

1912
大正元
  • 北大スキ一部創部(9月21日)
    文武会委員会においてスキ一部の新設が認可され、文武会にスキー部が学芸部、遊戯部、撃剣部、柔道部、弓術部、野球部についで、スケーティング部と共に部として正式に発足。初代スキ一部長は大井上義近教授
  • 北大スキー部第1回講習会(於三角山)(12月22日)
    50名参加
11913
大正2
  • 藻岩山登山(2月2日)
    大井上部長以下30名、部員総会かねて藻岩山(531m)冬期登山。スキー部の誕生を祝う
  • 手稲山スキー冬期初登頂(2月11日)
    稲田昌植、野村龍吉、松本義一、荒木忠郎、二木春松、古屋浅雄、柳沢秀雄、角倉邦彦が手稲山(1,024m)スキー登山
  • スキー部報告(3月20日)
    文武会会報第68号に角倉邦彦
  • 北大スキー部第2回講習会(於学内)(12月20日)
    30名参加
  • 蝦夷富士ヘ冬期スキー登山を挑戦(12月22-29日)
    稲田昌植ら8名は悪天候の中、挑戦し6合目で断念
  • 冬期富士山(3,776m)登頂に成功(12月31日-大正3年1月1日)
    蝦夷富士登山メンバーのうち角倉邦彦、荒木忠郎、柳沢秀雄の3名と同行者小島長次郎は冬期富士山登頂を決行、朝6時半に御殿場口を出発、6.5合目の小屋に1泊、翌朝大正3年元旦12時10分山頂登頂
21914
大正3
  • 第1回スキー競技会(於銭函:スキー部主催)(2月20日)
    銭函で北海道初の2kmのスキー距離競技会他を開催
  • 遠藤吉三郎、留学先より、スキー持参し帰国(3月14日)
    水産学部の遠藤教授はノルウェーより、フィットフェルト式(二本杖)スキーを持参
  • 『スキー及びスキー術』を発表(12月5日)
    文武会会報第73号に
第一次世界大戦(7月-1918年11月)
31915
大正4
  • 第2回スキー競技会(於圓山:スキー部主催)(2月21日)
    2km競走、障害物競走、リレー競技圓山南斜面で実施
41916
大正5
  • 冬山登山技術の研究と普及
    遠藤吉三郎教授はスキーで山野を跋渉する技術の研究を重ね、本格的冬山登山技術を学生に指導
  • 稲田昌植『スキー』刊行
  • 『リリエンフェルダースキー術』を発表(3月10日)
    柳沢秀雄「文武会会報第77号」に
  • 『スキーについて』を発表(12月5日)
    稲田昌植「文武会会報第79号」に
  • スキ一部初めての合宿(12月22-30日)
    小樽緑ケ丘の地獄坂付近で一般学生にも募集し、遠藤教授の他、二木、六鹿、福地、岩崎、大宅の幹事5名が指導に当たり、21名参加。
51917
大正6
  • スキー競技会(於三角山:スキー部主催)(2月4日)
    60余名参加。午前中は三角山滑降、昼食には一同相会して豚汁をすすり、終わって後幹事から当年度の事業報告、幹事の改選をし、記念撮影を行った。
  • 石狩-札幌往復の平地滑走(3月9日)
  • 第6回手稲山登山(3月25日)
    発寒より上って軽川方面に下り、途中ネオパラダイスを発見
  • 羊蹄山にスキーによる積雪期初登頂(3月25-26日)
    大島幸吉、木原均、岡見聞多、岩崎、高松、福地義二郎ら6人は、6合目よりアイゼン使用しスキー登山
  • 「芳賀スキー」スキーの製造開始
    福島県より東倶知安村に入植した芳賀一家、高田市の山善スキー製作所に注文してスキー製造を創業
  • 新入部員歓迎会初めて行われる(11月26日)
    折から来札中であった 堀内陸軍中将(本邦スキー界の恩人とされる)のご臨席を得て、ご講話を拝聴
  • スキー合宿(塩谷村)(12月25-31日)
    福地、大宅二氏がリーダーとなり技術の熟達に努める
ロシア革命(二月革命と十月革命)
61918
大正7
  • 日本初のジャンプ台建設
    遠藤吉三郎教授はジャンプ台の必要性を説き、日本で初めての仮設ジャンプ台を圓山南麓の奥(双子山)に建設
  • 第3回スキー部大会(2月3日)(軽川)
    午前は神社付近で練習、豚汁の昼食後一行60余名は手稲山頂を極め、そこから会場までの滑降競争を行った。早きは15分、遅いものでも25分で下降したというが、その有様は「飛鳥の速さ、龍虎の勢いを以て一気に滑降云々」であったと当時の新聞は伝えている。
  • 奥手稲山(1,930m)冬期初登頂(2月10日)
  • 長距離スキーツアーに成功(2月10-14日)
    木原、岩崎、岡見、福地、六鹿によって中山峠を横断(定山渓一倶知安の100km余)
  • 『スキー術教程』を編纂・発行(12月)
    ( 六鹿一彦、福地義三郎が共著)
    大正9年に第2版発行、大正11年に第3版発行、大正13年に第4版発行
    (第3、4版の著者は中野誠一、加納一郎、松川五郎、廣田戸七郎)
  • スキー合宿(軽川)(12月)
    参加者22名
北海道帝国大学農科大学となる(4月1日)
(帝国大学として東京、京都、東北、九州に次いで5番目)
71919
大正8
  • スキー競技会(於軽川:スキー部主催)(2月2日)
  • 『最新スキー術』を刊行(2月4日)
    遠藤吉三郎教授・木原均共著
  • 蝦夷富士登山。イワオヌプリ登山。(2月9日)
  • ニセコアンヌプリ登山。(2月11日)
  • 手稲山登山。札幌中学生徒70名を案内(2月16日)
  • 百松沢山初登頂(3月)
    小林一勝ら4人
  • スキー山岳写真展(於今井呉服店)(11月25日)
    北海道における最初の催し。
  • モノグラムの誕生(12月)
    沖野丈夫が北大スキー部のモノグラム(HUSV : Hokkaido Universität Schi Verein の頭文字のデザインによる)を制作。後年、大宅農夫太郎が中に銀の大印加えて現行のモノグラムとなる
  • ニセコ合宿始まる
    青山温泉『不老閣』で山岳スキー訓練の定例の合宿始まり、1971(昭和46)年まで53年間継続
  • チセヌプリ(1,134.5m)をスキーによる冬期初登頂(12月30日)
    福地義三郎、六鹿一彦ら5名はニセコ合宿後チセヌプリをスキー初登頂


北海道帝国大学農科大学を北海道帝国大学農学部と改め、新たに医学部を設置(4月1日)
81920
大正9
  • 羊蹄山を初めてスキー使用で登頂(1月3日)
    六鹿ら8名、頂上までスキー使用で登頂
  • 奥手稲・手稲縦走。(1月)
    木原均ら7名
  • 飛躍練習合宿(琴似)(1月15日-2月23日)
    第1回畑党の合宿。並河功、後藤一雄、緒方直光、廣田戸七郎の4氏で、練習は初歩的なものであり、記録もわずかに12-13m程度であったが、それさえも当時は容易でなかった。
  • わが国初のスキー駅伝競走(1月25日)
    北大スキ一部主催で、中学校を対象に札幌-小樽間30kmで実施。7校が参加、小樽商業が優勝(3時間42分37秒)
  • 中山峠より喜茂別岳登頂(2月10日)
    福地義三郎、板倉勝宣、松川五郎ら7名
  • 樽商スキー大会。(2月11日)
    大家敏範21mの新記録
  • スキー部大会(於手稲)(2月22日)
    部員60名参加
  • 飛躍大会(於琴似)(2月23日)
    二間板3枚用いて飛躍台作成
  • 本格的なジャンプ合宿(3月25-30日)
    小樽の小澤で木原均、緒方直光、大矢敏範、遠藤吉三郎、廣田戸七郎、岡見清二らが参加
  • 十勝岳(2,077m)積雪期初登頂(3月27日)
    六鹿一彦ら7人(スキー使用せずピッケル、アイゼンのみ)
  • 第2代スキ一部長に並河功教授が就任(5月)
  • 北大恵迪寮旅行部創立(5月)
  • 奥手稲に宿泊小屋建設(10月)
    桜井芳次郎氏の寄付
  • 青山合宿(12月25日)
    60名参加



国際連盟創設(1月)
91921
大正10
  • 昆布岳(1,045.1m)冬期初登頂(1月4日)
    板倉勝宣ら10人、狩太村から
  • 無意根山(1,464m)冬期初登頂(1月8日)
    板倉勝宣ら10入、豊羽鉱山から長尾山を経て無意根山に登山し、定山渓に下山
  • 余市岳(1,488m)冬期初登頂(2月12日)
    板倉勝宣ら6人、盤ノ沢より1,118m峰を経て余市岳に登山し、朝里岳を経て同地に下山
  • 遠藤吉三郎逝去(3月14日逝去 享年45歳)
    毛無山周辺を抜渉した遠藤山の地名残る
  • 大雪山系初のスキー登山(3月28日-30日)
    加納一郎ら5人、ユコマンベツ川上流の造林小屋からスキーにより旭岳試登、ユコマンベツ水源から下山
  • 芦別岳(1,723m)冬期初登頂(4月2日)
    松川五郎、板倉勝宣、加納一郎ら5人、山部25線から1,088m峰を経てアイゼン使用で登頂
  • 佐伯はる『青山温泉』の経営を任せられる(7月)
  • 『Alpen Zeitung 』(1-5分冊)を発行
    加納一郎らによる
  • 第3代スキ一部長に成田秀三が就任(9月)
  • 大野精七、東大産婦人科からベルリン大学他に留学
大学規則改正され、学年は9月を改め4月入学となる
101922
大正11
  • 旭岳(2,291m)にスキーにより 冬期初登頂(1月8日)
    板倉勝宣、加納一郎ら5人、勇駒別より旭岳にスキー登山、山頂付近はアイゼン使用
  • 佐幌岳(1,059.5m)の冬期初登頂(1月22日)
    板倉勝宣ら
  • 黒岳(1,984m)のスキーによる 冬期初登頂(3月20日)
    板倉勝宣、加納一郎ら3人、層雲峡より黒岳にスキー登山山頂付近はアイゼン使用
  • 大日本体育協会にスキー部が設置(4月)
    稲田昌植他8名が委員に任命される
  • シュナイダーの『スキーの驚異』『狐狩り』を上映(5月、11月の2回)
    北大スキ一部は細川護立公爵よりシュナイダーの映画を借用し、一般市民に上映会を公開実施
  • 「山とスキーの会」を結成(6月)
    加納一郎、板橋敬ーらは「山とスキーの会」を結成
    機関誌『山とスキー』を創刊し、昭和5年の第100号まで継続出版
  • シルバーシャンツェの建設
    日本最初の固定シャンツェ、シルバーシャンツェが三角山山麓に完成(1期工事分)(12月5日)
    2期工事は大正13年までかかる
  • 青山温泉『不老閤』を正式にスキー部の合宿所に試定
  • 芦別でジャンプ合宿(12月22-30日)
    中野、南波、廣田、緒方、平塚、青山、稲積、西村、三戸、小山ら10名が参加
111923
大正12
  • 板倉勝宣が遭難死(1月5日)
    山岳スキーの開拓に研究熱心だった板倉勝宣が立山弥陀ヶ原の松尾峠で遭難死(同行は槙有恒、三田幸夫の両氏)
  • シルバーシャンツェ完成記念記録会(1月)
    多くは転倒するも緒方温光のみ転倒せず
  • 北海道山岳会設立(1月25日)
    北海道庁長官提唱により創立。加納一郎がスキー部の経験活かし設立に尽力、総裁は歴代の長官、会長は林常夫。北海道スキー選手権大会を昭和9年まで北海道山岳会の主催で実施
  • アルファシャンツェを建設
    北海道山岳会はシルバーシャンツェに隣接し初級者練習用に2台目の仮設ジャンプ台を建設
  • 第1回全日本スキー選手権大会(於小樽)(2月12-13日)
    大日本体育協会主催、小樽スキー倶楽部共催、北大は不参加
  • 空沼岳(1,251m)、狭薄岳(1,296m)登頂(3月20日)
    岡村源太郎、森下星一、真駒内上流湯の沢から登る
  • 雄冬岳(1,197.5m)、浜益岳(1,258m)、郡別岳(1,376.3m)縦走(5月22-24日)
    佐々木政吉ら3人、ゾンメルシーを用い武好駅より雄冬岳、浜益岳、群別岳、暑寒別岳(1,492m)を経て山の神に下山
  • 第4代スキー部長に大島幸吉教授が就任(9月)
関東大震災(9月1日)
死者・行方不明者 105,385人
 
121924
大正13
  • 第1回冬季オリンピック(シャモニー)(1月25日-2月5日)
    日本不参加
  • 国際スキー連盟(FIS)創立(2月)
  • 第2回全日本スキー選手権大会(於高田)(2月16-17日)
    北大スキー部初参加
    クリスチャニアスラローム 相川正義 1位、森下星一 3位、
    純飛躍 緒方温光 1位、青山馨 4位
  • 全日本大学専門学校スキー競技連盟(現在の全日本学生スキ一連盟)が設立
    初代会長は河本東大教授、加盟校は早大、明大、法大、専大、東京薬大。北大は翌年加盟
  • マックス・ヒンデル(1887-1963)来札
    スイスの建築家で、ハンス・コラーの夫人がマックス・ヒンデルの妹という縁で札幌に建築設計事務所開設。手稲パラダイスヒュッテの他、空沼小屋、へルベチアヒュッ テ、更に藤、北星の女学校、トラピスチヌ修道院(函館〉などを設計
  • 大野精七、ドイツより帰国、北大産婦人科教授に就任(4月)
  • 第5代スキー部長に大野精七が就任(11月4日)
北海道帝国大学に工学部を設置(9月26日)
131925
大正14
  • ハンス・コラ一死去(1月28日)
    札幌で急逝(享年43歳)
  • 富良野岳(1,912m)冬期初登頂(2月7日)
    阿部謹吾ら8人、橋野農場-西方尾根からアイゼン使用
  • 全日本スキ一連盟(SAJ)発足(2月15日)
  • 第3回全日本スキー選手権大会(於大鰐)(1月18-19日)
    純飛躍 青山馨(OB)1位、伴素彦(OB)2位
  • 大雪山系のスキーによる登頂(3月26日-4月5日)
    伊藤秀五郎ら8人は黒岳にスキー登山し、黒岳登山小屋を中心として、凌雲岳、北鎮岳、旭岳、北海岳、白雲岳、小泉岳登頂(旭岳以外は積雪期初登頂)ゾンメルシーを使用
  • アーノルド・グプラー(1897-1982)ドイツ語講師として来札(3月)
    ハンス・コラーの急逝で、その後任として札幌に赴任。マックス・ヒンデル、山崎春雄(スイス留学経験)らと登山、山小屋建設でスイスとの繋がりで意気投合
  • 比布岳(2,197m)、永山岳(2,046m)、赤岳(2,078m)、烏帽子岳積雪期初登頂(5月14-19日)
    山口健児ら7人は黒岳登山小屋からゾンメルシー使用して
  • アルバータ初登頂(7月)
    槇有恒、三田幸夫ら6人がハインリッヒ・フレールらスイス人ガイド2人とカナディアンロッキーに遠征
141926
大正15
  • 暑寒別岳登山(冬期初登頂)(1月6日)
    北大スキー部7人、山の神の炭焼き小屋利用で
  • 夕張岳にスキー登山(冬期初登頂)(2月8日)
    北大スキ一部小森五作ら6人、トナシベツ川上流に野営
  • 国際スキ一連盟(FIS)ヘ加盟(2月)
    SAJの要請を受け、ベルリン滞在中の木原均は今泉剛一(旭川)と共にFIS会議に派遣され、日本の加盟承認
  • 第4回全日本スキー選手権大会(於 樺太豊原)(2月6-7日)
    25km 岡村源太郎 2位
    純飛躍 伴素彦 l位、緒方直光 2位、小林辰雄 4位、杉村鳳次郎 6位
  • 「山岳部」の誕生(11月)
    北大スキー部山班の伊藤秀五郎、津本三郎ら有志が発起人となり山岳部を創部
  • 手稲パラダイスヒュッテ竣工(7月4日-11月2日)
    スキ一部創立15周年に当り、大野スキ一部長の構想により建設。設計はハンス・コラーの義兄のマックス・ヒンデル
  • 札幌市、ジャンプ台建設に着手(12月)
    三角山周辺に廣田戸七郎など北大スキー部に設計を依頼しジャンプ台の建設に着手。翌昭和2年1月に完成
  • 全日本大学専門学校スキー競技連盟は「全日本学生スキ一連盟」と改称(12月)
    編集委員は廣田戸七郎、伴素彦、小川玄一、岡村源太郎、中野誠一、相川正義、村本金彌、本田春吉、山口健児
北海道大学創基50周年記念式典挙行(5月14日)

十勝岳爆発(5月24日)









大正天皇崩御(12月25日)
 
シーズンスキー関係政治・経済・社会動向
151927
昭和2
  • 札幌シャンツェ完成(1月)
    三角山で三つ目のこのジャ ンプ台で以後大倉シャンツェができる昭和6年まで各大会で使用
  • ヘルベチアヒュッテを建設(9月13日)
    アーノルド・グプラー、マックス ・ヒンデル両氏が小樽内川上流にスイス風山小屋を建設
  • 『スキー年鑑』の編集・発行
    北大の廣田戸七郎が翌年の発行まで2年間編集作業を担当
昭和金融恐慌(3月)
161928
昭和3
  • 第1回全日本学生スキー選手権大会(於大鰐)(1月13-15日)
    (以下インターカレッジと略称)
    北大、早大、明大、法大、小樽商大、日大、弘前高校の7校が参加
    純飛躍 伊藤健夫 1位、村本金彌 2位
    複合 村本金彌 1位、神津謙三 2位
    15km 山田勝己 2位
    リレー 2位  総合得点 57点 総合優勝
  • 第2回冬季オリンピック(サンモリッツ)(2月11-19日)
    廣田戸七郎監督、ジャンプ 伴素彦で日本初参加
    世界のジャンプの先進ぶりを体験して帰国。伴素彦36位
  • 秩父宮殿下が御来道(2月21日-3月5日)
    大野精七スキー部長らがスキー登山の警備と案内を行いつつ、ニセコ、パラダイス、へルベチアヒュッテ等に宿泊
  • 第6回全日本スキー選手権大会(於札幌)(2月4-5日)
    純飛躍 神沢謙三 1位(最長不倒 村本金禰 28m)
    15km 長田光男 1位
  • 秩父宮殿下、空沼小屋を建設
    秩父宮殿下、マックス・ヒンデル設計による空沼小屋完成(9月28日着工-12月10日完成)
  • スキー部々報の発刊
  • 部報 第1号 (昭和6年)、 部報 第2号 (昭和8年)
    部報 第3号 (昭和10年)、班報 第1号 (昭和16年)
     部報第1号は、残念ながら現在不明。第2号は約230ページに及ぶ著作で、スキー部の活動報告はもちろん、技術論など、当時のおそらく最前線のスキー資料であったと思われる。
     昭和16年には、“班報”というのが出てくる。これは、非常時局により大学体制が転換し、昭和16年2月6日(大学祝日)をもって文武会解消。北海道帝国大学報国会が生まれ、全学会鍛錬部スキー班となった。このため、部報第4号の予定だったのが、名前を変えて班報第1号となった。
     また、昭和16年はスキー部創立30周年ということで、この班報第1号の前半は 『北大スキー部三十年史』 として、シーズンごとの活動記録がまとめられている。本年表はそこから多くを抜粋、引用させていただいた。
社会的背景:
 非常時局は高度国防国家を主眼とし、全国大学および専門学校等の新体制化を要求

TopPage