2月10日、手稲雁皮平に於いて、一行5人がビルゲリー式雪中露営を行ったが、当時としては全く珍しい試みである。当時登山を専門としていた人々は山党と言われ、これに対して平地滑走、ジャンプ、スラローム等を研究し、競技会にその実力を試していた人々は畑党と称された。畑党のスキースポーツの中でも、特にジャンプはその最高なるものと考えられ、大正6年ごろからその研究は開始されていたがそれより先、木原、大矢両先輩はすでに大正3年ごろからこれに専心しておられたという。その研究が後輩の刺激となり、模範となって組織的な練習がようやくこの頃からとられるに至ったのであるが、それには遠藤博士の督励、並河先生のご熱心も大いに関係したことであった。
 2月21日には小樽商業のスキー大会に招聘を受け、遠藤、木原氏等とともに部員は小樽に至り、遠藤博士の指導によって作り上げられた木材の飛躍台にて飛躍を行った。この時、大宅氏は21mの記録を樹立して観衆をして消魂せしめた。
 <班報第1号(昭和16年)より抜粋>